作品と人物を切り分けること
主張や行動やアウトプットと人物を分けて考えるようにしたい - ロックンロールと野球とラーメン
読みました。
よく言われてることだと思いますが、クリエイターが作品以外の発信手段をもつことは幸福であると同時に不幸なことでもあるよなぁ、なんてことを考えました。
ですがここではそこに触れずに、自分は「どういう態度でアウトプットと人物を分けたり混ぜたりしたいか」を書いていきます。
作品と人物
作品が人物への評価につながるのは当たり前ですし、それがないとその人物へクリエイターとしての評価ができないことになります。
でも、逆に人物の評価が作品に影響をあたえるのはなるべく避けたいと思っています。
なぜなら、作品がどうかは作った人物と関係がないと思うからです。
どうしようもない人でなしが作った素晴らしいものと、聖人君子が作った素晴らしいものは、どちらも素晴らしいものだし、
どうしようもない人でなしが作ったクソと、聖人君子が作ったクソは、どちらもクソだと思うんですよ。
作品そのものに対する評価はなるべく平等にフラットな状態でしたいです。変に偏ったものの見方をしていると、審美眼が鍛えられないと思うので。
人物への評価を作品結びつける
そういう時ももちろんあります。
- 今までロックな曲を書いてきた人が急に方向転換してポップになった→その背景は○○だ
- ある音楽家の書く文章はその人のもっているリズム感が反映されて、プロの作家の文章よりも読みやすい感じがする
- 小説しか書いてこなかった人がエッセイを書いて、それまでの小説を読んできた自分はより楽しめる
などはそれまでの評価という蓄積がなければ得られない評価(感想)であり、それも大事な視点だと思っています。
作品以外のアウトプット
以上は一般的に作品と呼ばれる楽曲や書籍、絵画、デザインなどに限った話です。
主張、行動、短文などのアウトプットに関しては人物と結び付けられるのは当然だと思うし、躍起になって避ける必要はないと思っています。
なぜなら、誰が言ったかを抜いてそれらを判断するのは危険だからです。*1
そのアウトプットだけで説得力も根拠もしっかりあればいいんですけど、すべての言動にそれらを期待するのは難しいです。
今までその人が何をしてきたのか、何を言ってきたのかによって、現在のその人の言動に説得力や根拠が生まれ(たり生まれなかったりし)ます。それを受けて初めて「これは聴くに値する(しない)話だ」と判断がつくわけです。
一応書いておきますが、話を聴く前から「○○してきた人の話だから聴くに値しない」と決めつけるような話ではありません。
そういえばこんな記事も書いてました:
どうせ「誰が」言ったかに引っ張られるなら - ウラガミ
*1:どうせ前情報に引っ張られるなら自覚的でありたいという理由もあります