情報のインプット/アウトプット比について
現代は情報供給過多の時代なんて言われてます。おそらくここに異を唱える方はあまりいないように思います。
だからこそ「情報ダイエット」なんて言葉がウケたりするわけです。ちきりんさんもいつぞや「最小限のインプットで後はアウトプットの質・量を向上させた方がいい」的なことを書かれてました。多分。
これですね→ちきりんの“社会派”で行こう!:で、あなたはナニができるの? 「成長したい!」だけではダメな理由 (1/3) - Business Media 誠
このような流れは供給過多な時代においてカウンターとして出てくるべきものだと思いますし、「大量のインプットによってアウトプットの質が向上するわけではない」のはすごくわかります。
それなのに私はインプットばっかりしちゃうんですよね。
アウトプットは「気持ちしてます」くらい。生産性が~といわれたらぐうの音も出ないです。
イメージは漏斗型の情報処理です。
大量のインプットに対してアウトプットは少量という。
我ながら非効率的な処理です。
ってことで、ここではなぜ自分がそんなことをやっているかを書きます。
いわゆる成果物だけがアウトプットではない
よく言われるアウトプットの代表例は
- 論文・レポート
- 企画案
- 書籍
- 公演や試合
- ブログ記事
などのいわゆる「成果物」だと思いますが、それだけがアウトプットではないと思います。
- ささいな会話
- 質問への回答
- ツイート
- 投票
- 計算
- 家事
など、日常のアクションはほとんどアウトプットだと思いますし*1、
さらに言えば
- 誰にも言わない発見
- 事象の捉え方
- 腑に落ちるという感触
など、内的なものについても、そこに感情の動きがあればアウトプットだと思うんですよ。極端な言い方をすれば、無駄なインプットなんて無いというか。アウトプットにつながらないインプットなんて無いというか。どんな小さなインプットでも、それが積もり積もって自分の人格・考え方がつくられているわけですから。
確かに生産性*2からいったらそんなものまでアウトプットに数えてはいけないと思いますが、人生単位で考えた場合は、一つのレポートを完成させるよりも、ものごとの捉え方が変わる方が大きなできごとだと思います。少なくとも自分にとってはそうです。
そして、どんなインプットが自分に感動を与えてくれるかはわからないわけで、そのきっかけを多くする(インプットを増やす)のは悪いことではないと思います。*3
だから他人から見て漏斗形の情報処理であっても、内的な動きを含めたらアウトプットの間口は(外側からみるより)だいぶ広く、そこまで非効率的な処理はしていないと思います。というか思いたい。
インプットが楽しい
前段でウダウダ書きましたが、結局はこれにつきます。誰かの考えを聴いたり新しい知識を得るのはそれだけで楽しいものです。
「手段の目的化」なんていいますが、自分は最初からインプットしたくてインプットしてるので、それでいいのです。それで飯が食えるかっていったらそうではないのが悲しいところですが(笑)
また、「アウトプットを前提としたほうがインプットが楽しくなる」ともいいます。自分も細々とアウトプットを続けているのでその感覚はよくわかります。ただ、自分としてはアウトプットのためにインプットしているというより、楽しいインプットのためにアウトプットしてるという感覚が強いです。*4